建築家日比龍美BLOG

HITBIT 心もよう vol-111 May 2019

HITBIT[心もよう]vol-111 May 2019
・・・新たな天皇即位・改元「令和」・・・古代飛鳥の政治体制を回顧・・・
2019年5月1日・・・きょう、改元・・・元号は「令和・れいわ」。
昨日平成31年4月30日の24時をもつて平成の天皇が退位し上皇となられ、同時に皇太子が5月1日午前0時を以て天皇即位し、先月、前もって定められていた元号に改められ、新元号は「令和・れいわ」となった。
この「令和」に思ったのに「美しい国日本(ニホン)」「麗しき国日本」だ。良き元号だとも思った。
日本(ニホン)、なぜかボクはニッポンとよぶのは好きではない・・・かのフクダ総理(親の方)がニッポンとよぶとしたとかしなかったとか・・・どうでもいいが、このニホンというやわらか・ソフトな響きが、よりボクの感性に合うし、呼び方として正しいとも思っているが、ニホンとニッポン・・・どちらでも、雰囲気によって読めばいいのではとも思う、例えば、サッカーの国際大会では“ニッポン”と力強く叫ぶのが雰囲気としてあっているし、日本髪といえばやはり、“ニホン髪”だろう・・・そう、雰囲気、それに似つかわしくあればいい、一途に思いつめる必要もなかろうし・・・。
この改元に出くわすのは二度目、平成とこんどの令和で、二度目の体験となる。体験と書いたが、この身に何かが起きたわけではない。
このほか、時代の移ろいの区切りに、西暦の千年紀・ミレニアム・西暦2000年、そして、その新世紀2001年20世紀から21世紀へと100年紀ごとの新世紀への移行があり、さらに、かつて日本には「皇紀」という、西暦に比する日本の皇統の祖・神武天皇を始祖とし、建国以来今年は皇紀2679年らしい(暦には載っている)・・・これは現皇統が神・神武天皇を祖とするということを意味するのだそうであるが・・・。・・・実在したのか神話なのか、はたまた幻覚なのかわからないが・・・世々代々の天皇、この皇統が神の末裔であると、これは信じられ、かつては臣民?国民にも信じられてきて、明治維新を経て明治・大正・昭和・平成そして、この令和となったこと、この間にすなわち昭和20(1945)年太平洋戦争(日本では大東亜戦争とよんでいたし、今も一部の人はこう呼びたいらしい、アジアを開放する聖戦とでもいうのか?)、その敗戦によって、その皇統の神話性が占領軍によって否定され、皇統の神性も希薄化されたが、戦後の新憲法の草案の段階で、憲法草案を進めた学者や当時の内閣の強い姿勢・抵抗によって、昭和新憲法でも天皇制の存続が“象徴”という表現によって、かろうじて維持された。
皇室ではもともと皇統の神性は信じられて、平成天皇は神武へも言及した。すなわち、皇統の祖は神であると信じられている(天照大神・天皇や首相らがお伊勢参りするのも、天皇の祖への挨拶なのだろうか?)。これはまた国民にも信じられ支持されてもいるらしい(・・・まあ、観光旅行のいいわけか???)。
・やや主題からそれるが・・・それ、人々は“お伊勢参り”へと、旅する。それは江戸時代にはことに盛んで、厳しい関所の通過も”お伊勢参り“であれば、難なく通過することが出来たという。
”伊勢参り“は娯楽だったか、また閉じ込められた地域社会からいっとき開放される・・・そんな旅する口実かもしれないし、信心であるかもしれない。
また国民大多数が信じているのかどうか、信心とまで自己確認はしていないらしいが、パワースポットなんぞを信じてか・・・若い女子が連れ立って訪れる。
また、神ばかりでなく仏においても旅する口実、理由になって、近年ますます、その過熱ぶりがみえる。そして、観光地の寺や神社へ、お布施やらお賽銭として潤しているという。そう、美術品・芸術品として、仏像類が鑑賞の対象とされ、地方の有名寺院から、東京へと出張開示される。そう、ボクなんか、あの興福寺の宝、国民の宝、阿修羅像が東京へ出張した時には、身が縮むおもいで成り行きを見ていたものだ・・・塑壊れやすい塑像・・・事故でも起きなければよいのだがと・・・心配していた。
そう、寺社ではこの傾向は大歓迎なのだろう。やってくる人の信心あるいは古美術の鑑賞や歴史的な意義・・・そんなことなんかどうでもいい・・・今まで持て余し、維持するのも楽ではなかった・・・そう”宝の持ち腐れ“が思わぬ宝になる。そうして、寺社の体裁が整えられていく。真新しい解体修理がいたるところで進められ、それに伴って塔頭や庫裡がどんどんあたらしく作り替えられもする。商売繁盛のおかげというわけだ。
妙な方向へずれ落ちてしまった・・・。

・さて、この天皇制へ戻って考えてみれば、昭和憲法では、天皇は日本国の象徴であると、神を祖とするか否かは議論の外としつつ、“日本国の象徴””日本国民統合の象徴“として、国民統合の元締?と位置付けられ、絶えることなく現在に到っている。
・そして、ここに新たな問題として、その皇統の将来、血筋の存続、男の天皇を守るのか女の天皇を容認し国民統合の象徴を位置づけるのか、男女どちらでもいいのか・・・と、じわじわと議論というのか、存続の在り方が問われだしているという。
・ボクは、天皇制を一応容認するし、天皇制が存続する必要があれば、男女関係なく長子が嗣襲するのが最も明快だと考える。
なぜなら、昭和憲法以来、天皇は政治に関与しないこととなった。すなわち、天皇、例えば飛鳥時代、かつては大王といった、その大王は統治権、その治政権と祭祀権の二つ、すなわち全権を持ち、すなわち権力すべてを掌握する。
ところが飛鳥時代、大王が女の大王・中皇命(なかつすめらみこと)であったことが、推古紀、皇極紀、そして斎明紀の三度あり、その最後の持統紀を加えれば四度お女王(女天皇)の治世があったし、皇極紀と斎明紀の間には、孝徳紀という、やや血筋が異なるというのか薄いというのか、その中天皇(なかつすめらみこと)という天皇の時代・難波朝(孝徳紀)があった。さらに皇極紀と斎明紀は重祚(ちょうそ)、すなわち孝徳の姉寶皇女が、弟孝徳の時代10年ほどを挟んで二度の大王・中皇命として、即位している。
そう、まともに男が大王になったのは・・・葛城皇子すなわち天智だけだ・・・天武は叛乱・壬申の乱をおこして天智の皇子大友皇子(弘文)から大王位を奪い取って飛鳥浄御原朝を成した。
皇極紀と斎明紀の女大王、この寶皇女は、夫大王舒明の崩御により急遽、皇極として4年間大王の位置にあり、この四年目にあった乙巳の変で、蘇我蝦夷と子・入鹿大臣が皇太子葛城皇子とそれを陰で唆し操っていた中臣鎌子との謀議により皇極紀の大極殿で誅殺されてしまう。これが、乙巳(いっし)の変であった。
そう、古代倭国の大王権を支えてきた大臣には臣姓氏族の平群氏・許勢氏・蘇我氏などの武内宿禰の後裔氏族、また大連には連姓の大伴氏・物部氏・・・こうした古代氏族の排除に、皇太子葛城皇子(天智)の威を支えつつ背後で働きかけたのが後の藤原氏、すなわち中臣鎌子であった。そして、それは大王葛城皇子(天智)の死の前日、中臣鎌子の野望は達成され、藤原京時代、平城京時代へと藤原氏の権力構造は確立され続け平安京時代には全盛を誇る。
飛鳥時代以降こうして歴史上、藤原氏が台頭し、公卿の力があらわになって、大王すなわち天皇(すめらみこと)権は、その公卿による傀儡的な位置へと権力を失っていき、果ては武士階級が幕府という新たな権力機構を以て国を動かす権力を掌握する。
その権力もさらなる武士の台頭とその争奪の時代・戦国時代には幕府も衰退し、天皇の信頼も失せ、かわってその天皇を担ぎ台頭した戦国武士へと権力が移り、さらにその天下を統一したかに見えた織田信長のおもわぬ死と、かわって、うまく立ち回った豊臣秀吉が改めて天下を取る。その豊臣を倒した徳川幕府が260年余を統治、王政復古によりそれも失せ、武士階級が失せ、19世紀を数十年残し、明治維新以降は富国強兵の国家造りにおいて、政治に軍部が台頭し、牛耳っていくこととなった。これによって天皇権も軍国主義・軍部に利用され、天皇が軍の総帥(本気だったか嫌々だったかは定かではない・・・)として・・・これも一種の”象徴“的な位置づけが成されていた・・・。
明治大正昭和・・・昭和20(1945)年8月15日、連合国に対して無条件降伏・・・ここまで、明治憲法とそこに天皇制は治政権と祭祀(斎祀)権を天皇家の枠をはみ出し・・・成立してきた。
しかし、敗戦・・・結果の”昭和憲法“では政治にかかわることはなくなり、国民統合の象徴として・・・政治と切り離された天皇が、ただ国事行為に規定する政治的なかかわりの範囲と、別に天皇(天皇家)が有する祭祀権の範囲のみにおいて、神武以来の祭祀が現代も続けられてきているらしい・・・。
この度の平成の天皇の退位、すなわち、皇太子へ譲位して上皇となること、さらに令和へ元号が改められ、皇太子が即位する・・・それら一連の退位・即位・元号制定・・・それらは、天皇家の祭祀権と国家の国事行為とが付かず離れず進行して新たな天皇即位と元号への移行が成った。
・・・こうしてみると、天皇が男系である必要性は全くない・・・すなわち、天皇位は、その”祭祀権“のみにおいて、その象徴との位置づけとともに、天皇家において存続存在意義があるのであって、古代王権の治政権、例えば飛鳥時代は、実は常に祭祀権によってその”王権の内の治政権“すべての行為の進行は司られてきていたのであり、これは昭和の敗戦と新憲法がいう”天皇は政治にかかわらない“ということが、解釈を純粋にすれば事実上、古代飛鳥時代の倭(ヤマト)王権においてもすでに成立していたそれの踏襲に過ぎない現状であることに思い到るし、そうだとすれば、天皇が男系でなければならないことは何一つ理由がないことになる、と考えられる。
すなわち飛鳥時代はすでに大王が為す治政権は皇后が直接担う祭祀(斎祀)、これはもう権力といってもいい有様であった。そのことを、大王とそれを取り囲む大臣らは気づいてはいなかったらしいが・・・ただ一人、孝徳紀の皇太子・葛城皇子(天智)は気づいていた・・・、それ、斎祀があって初めて治政権は執行されていた、そのこと。
やや次代へと先走るが、この陰には、古代祭祀にかかわってきた中臣氏の祭祀に対する自負と、古代臣姓氏族と連姓氏族の根絶を図る目論見を持ちつつ葛城皇子を皇太子時代から大王時代へと忠誠を以て支えてきた、中臣氏、その鎌子の執念が実を結び、藤原氏として、藤原時代、平城時代そして平安時代へと、中世王朝を支える、藤原氏の栄華期を成していくのである。その一方で、藤原不比等の時だったか、中臣を政治権力と斎祀権力へと分離し、藤原氏と中臣氏とに分離独立させる。その斎祀権を担ったのが中臣氏であり、その象徴が春日大社であろう。また一方では仏教とのかかわりを、天皇とのかかわりを保ちつつ天皇の后・妃へと藤原の血筋を供しつつ強めても行く。その仏教とのかかわりの中心が興福寺であり、藤原氏の氏寺となる。
こうした時代への移行期、そのもっとも顕著な事件・事変が、大王斎明の弟・大王軽皇子(孝徳・中天皇(なかつすめらみこと))の難波治世の中紀、皇太子葛城皇子が為した叛乱、それは静かな叛乱であったが確かに叛乱であった・・・。それは、大王軽皇子(孝徳)の后・間人皇女(皇太子葛城皇子の妹(はしひとのひめみこ))を拉致し、難波宮から飛鳥へと連れ去り、大臣公卿らもすべてを飛鳥へと還らせた・・・この皇太子葛城皇子をあおりそそのかし、実行した影の存在が中臣鎌子なくしては語れない。それを叛乱をボク皇太子葛城皇子の”静かな叛乱“とよぶが、確かに皇后を奪取・拉致し連れ去った・・・この大事件こそ、皇后の為す祭祀(斎祀)権を大王軽皇子(孝徳)から奪い取り飛鳥へと連れ去ったのである。すなわちただ一人、皇太子葛城皇子は、后の存在意義を理解しており、影の存在、中臣氏という飛鳥時代まで斎祀を担ってきた氏族はまた、その斎祀を担うことの重要性を把握しており,この教唆こそが葛城皇子を唆し煽ったのである。
これによってその成す祭祀によって治政権は薦められることを、皇太子葛城皇子、後の大王天智は明らかに理解していた。
そして、自身が皇太子であることも、間違いなく理解していて、現大王の后を大王からはがし、大王軽皇子(孝徳)から祭祀権を奪い去った。そして、今、皇太子葛城皇子は、自らの手に治政権と祭祀権の両権限を手に入れたのである。しかし、なぜか、皇太子は現大王軽皇子(孝徳)を自らの手で消すことまでは為さなかった。そう、かろうじてではあるが、未来の大王は理性を保ったのである。ここが後の壬申の乱を引き起こした弟皇子・大海人皇子(天武)と違うところか。
すなわち、皇太子葛城皇子は左右大臣・公卿・群臣らを糾合し、母の弟である大王軽皇子(孝徳)から、その治政権を奪取・・・すなわち、皇太子主導による集団政治体制の成立・・・という叛乱を成したのであるが、その治政権にはすべて祭祀(斎祀)が伴わなければ成り立たない“機構”に当時の政治体制はあったのである。
すなわち政治には必ず祭祀(斎祀)が伴わなければならなかった、飛鳥時代・・・実はそれ以前の古代王権においても・・・その絶対的な祭祀権を皇太子葛城皇子は大王軽皇子の后・間人皇女を大王から引き剥がし、飛鳥へ連れ去り、飛鳥において皇太子と群臣らによる集議体制において政治を執り行うことを意図したのである。
すなわち皇太子の妃ではその斎祀は成り立たず、大王の后・皇后・王后でなければならなかった。その時、皇太子葛城皇子の妃は后ではなく、ただの皇太子妃に過ぎなかったのである。
これまで、大王権が后の上位にあると考えられてきた、確かに表面上はそれでよいかもしれないが、古代政治・大王の統治権は、実は后が為す斎祀権によってすべてが“決定され有効”となったのであることが日本史学・歴史解釈上、全く見落とされてきていた。現在も見過ごされている。
・やや方向がそれるが、あえて言えば、あの不可解な“巫女王”とされる“卑弥呼解釈”においても、それ斎祀権のこと、その要素だけを注目して解釈され続けている。そう、なぜ卑弥呼がその時、あの混乱の時代に、男の大王権を封じて必要とされたかの論議が為されず、ただ単に斎祀を司った卑弥呼というように、卑弥呼だけが、その古代王権成立の重要な要素、斎祀、それをただ卑弥呼解釈においてのみ語り、祭祀権が治政権には必要であったことが、語られない・理解されていないで来ている。すなわち、後の大王権の権力、治政権と祭祀(斎祀)権においては、いかに大王后が重要なのかがりかいされてこず、その、なす斎祀権の意味を歴史家らは失念してしまっている。
飛鳥時代以降、大王権・統治権、その二つの要素、治政権と斎祀権の両権利を基本的・表面上は男大王が主導し為すのであるが、それは飛鳥時代の始め、その舒明紀に純粋に大王権はあったのであり、それ以降皇極紀・孝徳紀・斎明紀は、いわば中皇命(なかつすめらみこと)の時代であったのである。それには女大王あるいは大王王后により天上の神へその執行の承諾を得なければならなかった、その権力・巫女王が、それ、神に伺いを立て、神の承認を得ることは、飛鳥時代、さらにそれ以前の古代大和朝廷の時代も必須であったのである。
・実は、これも歴史学者らには見落とされ、空虚な男大王の存在、その解釈の結果の脆弱な基盤上で史学・歴史学・古代文学など、その研究や討論はなされてきている・・・そう、現在も。
・・・・・・・
現代の日本の政治体制・・・昭和憲法上、さらにさかのぼれば、明治憲法においても、現実は大王が治政権を執行し祭祀(斎祀)権をも執行するには祭祀(斎祀)を実際に執り行う皇后の存在が必須であった・・・しかし、明治になって、どうしたわけか、皇后は斎祀権をも天皇へ渡してしまったかのような扱いを受け、天皇の妻・男子・王権の嗣襲のための男子を生む装置・だから側女という位置をも許してきた、というような付随的存在にされてしまった・・・これを疑問に思わず、天皇も皇后も、政治家たちも日本史学者らも、完全に失念している・・・。
・そう、王后・皇后の必要な訳・・・総てが忘却状態・・・)は、まさに飛鳥時代のあの皇太子葛城皇子が為した静かな叛乱・大王軽皇子の后を剥奪・拉致の上に飛鳥還りした意味とは・・・群臣らによる集議体制において政治を執り行うことを如実に示している(が、誰もこのことに気づいてはいない???)・・・政府・国会・国民主権その投票権、さらに三権分立。ただそこには現代、常に、祭祀権は表立っておらず、斎祀は天皇権のもの、としての解釈となってしまった今日、それも男の天皇が祭祀をしているそれに疑問を抱くでもなく、王后・皇后の存在意味を問うでもなく・・・しかし、ここに到って、いかにも存在しないかに見える、いわば天皇制・象徴天皇は、過去の歴史の本質への回帰だったとも考えることが出来よう。
そうであるのに、日本史学は飛鳥時代、その前紀・・・推古紀(この時代も飛鳥時代へ入れれば)、皇極紀は女大王寶皇女(中皇命・なかつすめらみこと)−が、祭祀を執り行うことを前提に、皇太子と群臣らによる集議体制において政治を執り行うことを意図していた、孝徳紀・難波朝廷・中天皇(なかつすめらみこと)の時代−中継ぎの男天皇の時代−傀儡の大王権との認識だったが、この大王は大化改新とよばれる改革政治を実行した、そして、斎明紀は女大王寶皇女(中皇命・なかつすめらみこと)が祭祀を執り行うことを前提に、皇太子と群臣らによる集議体制において政治を執り行うことを意図し、かつ実行した時代であったことを完全に見落とし、日本史をあらぬ方向へ誘導してきてしまった・・・この時代、政治を担ったのは女帝ともいえる女天皇・・・すなわち、中皇命(なかつすめらみこと)の治世時代であったことと、その実態を、政治と祭祀・斎祀の観点から、斎祀を完全に見落としてきた・・・日本史研究・・・、ただし、推古紀は厩戸皇子・聖徳太子−皇太子を摂政とし完全に治政権をゆだねていた(ここでも女大王推古は斎祀を担っていた)、まれな時代であったし、孝徳紀・難波朝廷の大化紀は天皇を飾り・傀儡として指名したが、この大王軽皇子は右大臣蘇我倉山田石川麻呂との治世を果敢に実行し、かつ、后間人皇女は大王を支持し,その斎祀権を大王孝徳のために行使し、傀儡大王のはずの大王軽皇子(孝徳)紀の思わぬ治政権の行使者となり、大化改新を成した大王となった(現代歴史は、大化改新を成したのは、皇太子であった葛城皇子だとしているが、これは大きな間違いだ)・・・慌てた皇太子葛城皇子は腹心中臣鎌子と議らい(謀議・策謀)飛鳥還りをはたすという“静かな叛乱−謀叛”を実行した。この叛乱は、大王の妃を獲得する、治政権を祭祀権を以て執行に到らせるというこの時代の本質を、実はただ一人、時の皇太子葛城皇子(天智)は、見抜いていたのであり、これを支えたのが中臣鎌子だったのである。
これ以前、皇極紀の乙巳の変・・・蘇我蝦夷と子の大臣入鹿を暗殺する変事があるが、その政治の実態、飛鳥時代、難波朝廷の紀、孝徳紀の事件(葛城皇子の飛鳥還り)を正視することなく歴史からは見過ごし、ただ一方的な男の目、男たちの独善の政治観、歴史観、男上位であるという愚かな観念、そのことばかりに意を用い、・・・本質が祭祀(斎祀)権にある・・・ことに気づくことなく見落としてきた日本史観・・・実際、男の王権・天皇の権威が確立するのは、奈良時代、おおよそ平城遷都後、仏教が形をあらわにしたころ、東大寺に大仏が建立された時に、確実となった時の天皇権からである。
・大王権と時代−ことに古代飛鳥時代の歴史解釈が、王権と祭祀(斎祀)の関係を見失わせ、歴史が語られてきたそのことを、ボクは2008年秋からの論考とその結果である『額田王研究』(八月美術館発行)において明らかにしてきたが、この視点が、今日の天皇制さらに天皇の嗣襲において、この象徴天皇を語るとき、祭祀権を司る天皇の姿に女性があっても何ら不思議ではない、女性である方が当然であることが、すでに飛鳥時代には”事件”としてその叛乱・皇太子葛城皇子の叛乱、その飛鳥還り・・・に、あったこと、そこに、今日改めて注目し歴史を、「令和」の今、この時、語らねばならないと考える。
すなわち、この令和の天皇は、幸いなこと、あるいは偶然に、平成天皇の直系、その第一子が男子・皇子であったことが、さも当然と必然のように解釈され受け入れられ、昭和憲法のもとでは、天皇の持つ大王権その二つの権力、治政権と祭祀権・・・であったが、それ、失われた治政権・剥奪された治政権・・・それに気づかれることなく・・・男子の天皇の即位となられた・・・と、このように考えられる。
実は昭和憲法が天皇を国民統合の象徴天皇とすることを明言し発布されたその時に、天皇が男女関係なく長子が嗣襲することを暗に認めていたのであり、女天皇(女皇・女王)の成立は何一つ問題をはらむものではなかった、と考えてよい。
それよりも、男系を堅持しようとする男社会の反映のあまり、長子という、もっとも単純・純粋な王権の嗣襲者という皇統の単純性を阻害し、複雑化し、さらには、天皇の霊(たま)と血(血統・ニニギノミコトが霊とされながらも、この豊葦原瑞穂国へもたらしたもの)の単純・純粋性を複雑化し、皇位の継承を複雑化し曖昧化するという危うさを作り出している。
このように考えれば、令和の次の時代には、その一人っ子である長子・女・長女である女天皇が即位されても何の不都合はなく、今後の天皇家の秩序を単純化し正統化して行く道筋とすべき時だろう。その次も長子を基本にしていき、不測の自他への備えも、そこから始めるという道筋を踏めばいかがだろう。アベ総理は、今こそ、これを政治行動に組み込み考え決定すべきと記であろう。このまま放置すれば、皇位継承は必ず混乱をもたらすだろう、そうしないためにも、現アベ政権は行動するべきだ。
もともと、天皇制は神・天照(アマテラス‐これだけですでに大神・オオミカミを意味するほど大きな神なのであるらしい)・・・ここから発したとすれば、女天皇であること、そこにただ一つの不都合もあり得ない・・・すなわち、天の御神の霊を自らが霊とされ天降ったニニギノミコトは、残念ながらその天の御神の霊と血の運び屋に過ぎなかったのであること(これは『額田王研究』中に詳述・・・假使天孫・たとひのあめみま・“神霊のただの運び屋”)を、今こそ、日本国民は知るべきである。
昭和憲法を考えるとき、古代倭王権の祭祀(斎祀)権そのもの、治政権には常に祭祀(斎祀)が伴うという原点へ純粋に立ち戻るということに昭和新憲法は明言すべきであったのに、それをGHQと日本の憲法学者・歴史学者は考慮を致さなかった、全く気付いていなかったのである、がここへきて、女天皇・女皇・女王を議論するとき、歴史、日本史を改めて、読み解けば(すなわち疑似漢文・漢文へ立ち返って、一字ずつ漢字を読み解くこと)、現在の民主憲法にも沿うものとなることに、思い到るはずである。
すなわち古代の、そして現在の天皇が母系女系から発したと考えれば、天皇が男系でなければならないとしたのは、敗戦時にまで存在した軍国主義・帝国主義の残滓を脳に焼き付けていた憲法学者や法学者・歴史学者らの誤った識見が為したものだと考えられる。
そう、倭国は元といえば女系・母系、女性上位、女が治める国であったものが、たまたま神武という大王が仮説か仮想か幻か、男であったところを言い訳にし、ニニギノミコトさらに神武を生んだ母の存在に言及しないところへと進めた結果というのが本当のところだったかもしれない・・・いや、まさにそうであったのだろう。そう卑弥呼のように、この巫女王の時代が平和を求めて成立したように。そして、アマテラスが天降り来て倭国の最高神となったことのように・・・男は、女神の掌の上で弄ばれるのか・・・また、それこそが平和なのかしら・・・と、想うのである?!?
・かの平塚らいてうは「元始、女性は太陽であった」と。名言を遺した。これは倭国・日本女性の本質を一言で述べたのである・・・と、ボクはこれを肯定する。
一方で平塚らいてうは「現代、女性は月である」とも述べた・・・ボクは、これをも肯定する・・・しかし、それは輝く太陽があってこそ、月は照る・・・そう、この月の照ること輝くこと・月の満ち欠け・・・これは実は、地球を介した太陽の働きそのものの作用であり・・・太陽の輝きよりはるかに深遠・深淵な趣を内包している・・・らいてうはこれを見逃しているが、女性とは、ここに思うように、大変な尊厳ある存在だと僕は思う、真剣に思う。
平塚らいてうは、現代、女性が月のような存在、であると口惜しそうに言い残したが、らいてうの口惜しさは、この男ども、その優位を我がもの顔に為すその男への“忌忌(いまいま)しさ”のために、女性の尊厳・本質・存在を見失っていたのかもしれないと、思う。いや、この忌忌しさが、女らいてうの思考の底に常にあったのだろうか。
そう、女性とはきっと、太陽そのものでありつつ、その月をも存在せしめ、その輝きを失うことはない能力なのだろう。
女性の自覚と包容力・・・それは、右隻左隻の屏風それぞれに金銀と輝く太陽と満月のように、相照りながら、人の存在を見つめ続け、励まし続けるのだろう・・・きっと・・・この日本という国においては・・・。
君は、この宇宙にこの地球に月がなかったなら、この夜が、ただ星明りだけ暗闇ばかりだとしたら、なんと味気なく寂しいことだろう・・・。そう、この世に月があるからこそ、文学は科学は進歩した。農民が科学者となりえたのは、その月の満ち干を察知したからに他ならない。月こそ、地球の母なる存在、あるいは、本当は地球の孝行娘なのかもしれないと、思う。
ああっ、ボクも予想だにしない・・・あらぬ結末?いや、ここへ行きつくべくして、ボクはこの長い五月の序文を書き出したかもしれないと今思う。
・・・そう、こんなこととなってしまった・・・ごめんなさい男たちへ。そして特に女たちへ・・・この日本(にほん)のこと頼みます・・・日本がこの倭国が本当の男女同権であるそのこと、いや、本当は女性あっての国、女性上位の国・・・女の影の力なくして成り立たないことの、密かな女の自覚と、いうまでない男の自覚、日本の男は十分自覚してきた・・・これこそが日本の平和を創りうる・・・そのこと!!!
「令和」・・・美しい国日本・麗しき国日本・・・この、美しき女たちへ。
よろしく、女たちよ・・・これからも・・・。
・・・このBLOG第111号・・・なんだか偶然なのだけど、企まずして、偶然とは・・・なんと・・・。ええ、何年も前、1年間休刊したことが・・・この記念すべき号となりました・・・。
この加筆部・修正部をタイピングしていた5月27日、月曜日・・・家の前の里山、その斜面の雑木林から、これまで聞いたこともない、ホトトギスの群れ来て鳴くのかしら・・・その繰り返す鳴き声・・・僕の著『糠田王研究』に登場したこの夏鳥の鳴き声、囀り・・・あの飛鳥の故京に鳴く重要な風景・・・これを思い・・・感激しつつ、この5月27日の加筆・修正タイプをしました・・・。この異常気象の1週間ほど・・・狂った季節・・・その異常も今日で収まるのでしょうか・・・。
そう、来月6月も頑張って過ごしましょう・・・異常気象,不安定な気候が、いつ何時ぶり返すかしれません・・・どうか、貴女・貴方にはお体ご自愛の上お過ごしくださいますように・・・。・・・・・・・・・・・・・再見!!! 
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===目次===
5/01  ・・・退位・即位・新元号・・・
5/08  ・・・元号決定・その背後?・・・
5/09  ・・・自動車税の請求・納付書に大きく“元”と赤刷り・・・
5/16  ・・・・・・新緑と人生を重ね見て・・・
5/27  ・・・ホトトギスが鳴き続ける今日の里山・・・
5/30  ・・・今日の里山・・・
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・・・退位・即位・新元号・・・
5/01/Wed.
昨夜24時をもって昭和の天皇は退位し、上皇となられ、それによって、この5月1日は皇太子が新たな天皇へ即位し、そして4月1日に決まっていた(エイプリルフールの洒落じゃなかったんだ・・・)新元号は『令和−れいわ』と正式に決まった。これは熟語としては存在しない。新しく考え組み合わされた文字『令』と文字『和』からなる新しい熟語?ということが出来よう。これを「れいわ」とよむ。これ、すなわち、この“日本国を寿ぐ”呼びかけ・・・か。
元号(年号)は明治になって天皇一代限りの年号とすると決まったのであるが、この2019年の天皇退位により皇太子が5月1日に天皇即位した。
これに先立って、新元号が、現在の政府によって今日4月1日に決定され発表された。今日5月1日であるが、この元号決定の在り方は、本来の元号決定とは後先が逆なのではないかと考えるが、天皇が政治に関与しないということから、政府が主導し、先に元号が決定された。ここには、政治・経済・社会通念など、さまざまに年号・元号がついて回るこの日本の世の中において、即位までの一月の間を余裕ある世・時代の移行を促すということか。
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・・・元号決定・その背後?・・・
5/08/Wed.
6日で長く長い10連休はようやく終わった。ニュース・記事になるような大きな事故が起きることもなく(登山遭難や高速道路の事故はあったが・・・)・・・まあまあの良き休暇をお勤めの皆さんは過ごされたようだ。
しかし、ここでもこの長い休暇の日々を自由気ままに過ごすこともなく、休暇を楽しむ人たちへその楽しみを提供する側の人たちがいること、この休日を、苦痛を以て過ごさねばならない人たちがいることへも、少しでいいから思いすることを、心にとどめたい。多分そんなことへ思いをすることは・・・?
ところで元号が改まったことは、国民や外国でも好意的にとらえられたようだ。ちょうちん行列はあったのかなかったのか知らないが・・・。バカ騒ぎをやらかしたものもあったようだが、混乱にはならなかったらしい。
二千何百年も続く皇統があなす象徴に国民は統合されるという国・・・これは日本人にしても、外国の人たちにしても・・・なんとまあ、不思議な国・国民・・・そんな印象を改めて与えたようだ。
そして、天皇とその家族が“国民統合の象徴”・・・なんて、なんと曖昧な言葉と、ある意味の形・・・なのだろうとおもう。
このあいまいさ・・・良くも悪くも、この国の体制と政治、この国民・・・と、不思議、やはりなんと考えてもわからない不可思議な行動と考え方の人たち・・・この国と国民・・・なのだろうと・・・やっぱり、地球の東の果ての国・・・その何千キロと緯度と経度を斜めに断ち切って、いや、その緯度と経度のなす網に引っ掛かりながら大海原に支えられて地球の表面にくっついて在るという列島の国・・・火山と地震、それに大津波に怯えながら、この狭い列島に、ニコニコと暮らす妙な人たち・・・住むところに違いがありながら、四季があり、何となく全体が同じようなものの考え方をし、何となくニコニコしながら曖昧さを表し、それが外国人には、親切で礼儀正しく、秩序を以て社会を作っているし、礼儀正しく親切だし・・・などと評され・・・さらにそこに伝統という様々な、精神的な位置づけや行動の在り方を日常に表し持ち続けてもいる・・・原爆に悲嘆をあらわにし、大地震と津波と原発ダウンと放射能汚染・・・戦争を反省し、今では忌避しながら戦力を拡充し、その背景に伝統と技術革新を成しつつ敗戦から立ち上がって、それが国民一丸の働きだったなんぞと・・・戦後の国民の自己評価は言いう・・・。
・しかし、世界の中でも、きわめて小さな狭い家に住み、そう、さして高級な住まい・現代的な住まいでもないこの国の人たちの住まい・・・それに生活・俺もその内にあることを認めつつ、手立てもないまま、むなしく日々を過ごしている・・・日々、何となく過ぎていく・・・。
・ボクには関係ない日常ではあるが・・・B級グルメに満足し、魚の生身を食う、不思議な食べ物にうつつをぬかし、なんとも秩序のない居酒屋にたむろし、終電に遅れもせず、その狭っ苦しい家に帰る、よっぱらいながらも最寄りの駅に間違うこともなくたどり着き目を覚まし、駆け降りる。
そしてまた、駅前の赤ちょうちんでも引っ掛かり・・・一杯ひっかけ・・・最近はおっさんばかりでなく、お若い女性が・・・赤ちょうちんに縄のれんをかきあげ・・・おっさんらを従えて飲みまくりB級を食いまくる・・・それでいて、次の日には、二日酔いをシジミのエキスをかみしめて、営業へと繰り出していく・・・あるいは海に面した埋め立て地のタワーマンションなる、似通った形のそれらが林立するその一棟・最寄り階、その一室へと間違いもせずたどり着く不思議・・・。
・海抜ゼロメートル地帯・・・そこへ大津波がいつ押し寄せてくるかなんてことは、そのエキゾチックな行動と思考に覆い隠して改めて恐怖におびえることもなく・・・へっちゃら・・・な日常性。そこへ帰りつく地下鉄が海面よりはるかに深く貫通していることなんぞ想像だしない、この上京者、田舎者の、そのずぶとさ・・・。
ええ、この、どう考えても、おかしな民族・・・これが、国民統合の象徴の為せるものなのか・・・なのかどうか知らないが、最近は・・・黄色・黒色・白色・茶色・赤色・透明?・・・と、これを国際色豊かといい、それぞれの面々を加え・・・なんだか、わいわいがやがやと、にぎやかに・・・やっている・・・。お行儀がいい、モラルを守る人の国・・・そんな人が居酒屋で、手皿で煮物の汁を受け、おっととと、武骨な手で受ける・・・その無様さ・・・平気面・・・恥しらず。そして、しゃれて一句詠む、その軽妙さ、面妖な押しの強さかな・・・これ。
・クール・ジャパンなんぞと自慢げなことを臆面もせず、外人の出演者にオベッカまがいの愛想をつかわせ、ほめそやさせて大満足・・・馬鹿気た気恥ずかしさだし恥ずべきことだ。
そして、世界の国々の国民の幸福度調査では・・・50位だか60位という中流以下の幸福度なのに、街頭インタビューに答えて、さすがに1位だなんぞとは言わず世界2位か5・6位くらいかしらと、満足げにあっけらかんと答えるお嬢さんおばさん・・・いいわねぇ〜この変な国。
・僕も、この日常・・・不幸だけれど・・・不仕合せでもない・・・日常、日々刻々身辺に起きることを受け入れ、こうして生きていることを、受け入れている。このお嬢さんおばさんのような精神状態・・・これにボクはすごく好感を持つ。ええ、これ、ほんとうに正直に、褒め言葉です。
ほんと、この国の国民・・・この能天気さおおらかさ・・・あえて言えば、忘れっぽさ・飽きっぽさ・・・自分を幸福だと思うこの大らかさ鈍感さこそ、ニホン人の美徳だし良き国民性なのだ。
・ええ、どこかの国のように何十年何百年と”怨念”を持ち続け、せっかくの友好の協定をも平気の平左、へっちゃらでチャラにする、反故にする・・・この厚かましさ低劣さ・・・その大統領。
・そんなのに比べるとこの日本国民は本当に幸福かもと思えてしまう。この忘れっぽさの故にか・・・、エキゾチック?な妙な人間・二ホン人がこの二十一世紀にまでも存在し続けている。これ自体が不思議といえば、不思議なことだ・・・。これも国民統合のありがたさかしら・・・ね、ううん???
これ、もしかすると国全体が・・・絶海の孤島である所以かもしれない・・・ね。そう、確かに経度緯度のなす網に引っ掛かってかろうじて浮いている列島の国、日本。そう、まじめに考えたら、恐ろしくて、こんな浮き島になんてくらしていけないでしょ???
そう、未曽有の災害すら・・・さらりと忘れる・・・これ、日本人の、この民族の本当の心の中ではなく・・・振りかしら???
【追記】全く別のこと、今宵・・・あの飛鳥故京、その額田王とともに、その庵で眺めた陰暦四月八日の月を思い出していた(『額田王研究』の「はじめに・序章」)。そう、この研究書の冒頭、額田王との出会いの日の宵を思い出す。
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・・・自動車税の請求・納付書に大きく“元”と赤刷り・・・
5/09/Thu.
ギラギラとした日差しの昨日一昨日・・・それを忘れさせる今日の曇り空・・・落ち着く。
今日は自動車税を納めに行った。そして、その日付けを・・・元年05月09日・・・と記入した。そう新元号が成って初めての公式な記入だ・・・令和とは書く欄がなかったけど・・・とにかく初めての記入。
いいねえ、この元号というやつ・・・なかなかいい。
世界唯一、自国の年号を持っていて使うなんて・・・しゃれてる。ボクは平成という元号はあえて使うことをしなかったというか、西暦で覚える方が何かと都合がいいような気がして、西暦を使っていた。
今年この5月からは少し元号をも使ってみようかなとも思っている。
そう、自動車税の請求・納付書に大きく“元”と赤刷りされたそれが何となく新鮮に感じられたことが、この元号使用を僕にさせたのかもしれない。
そして、この通知書の片隅に小さく“グリーン税”なる記述、その14%ほどが加算されていると但し書きがあるのを見出し、その理不尽をなじりつつ払ってしまったものは致し方ないと、いやいやながら許してやった???
物を大切し、大事に使う、これは僕の生き方・・・本当に物を壊さないように使い続けることは、僕の生き方の一面だと自分自身を思っている、すなわち“ツマシイ”この性分(吝嗇ではない)のこの人間ボクが、どうしたわけか、あらぬ課税・加税に屈服しなければならないこの不思議・理不尽・・・を、泣く泣く諦めた・・・そう、物を大切にすることが、なぜか、悪いことのような・・・課税だ。
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・・・新緑と人生を重ね見て・・・
5/16/Thu.
おとついは雨降り、昨日の午前中は陽が射し、午後からは薄曇り、気温が下がって・・・。
付近の里山を新緑が覆い、新芽が醸すのだろう、さわやかな柑橘系の香りがこの辺りを覆っていたが、それも収まってきた。
こうして気付けば近くに緑地があることが奇跡のようにも思われる。
いつも書くことだが家の目の前の里山の斜面の裾(「の」がいっぱいの文・・・へたくそ)、そこにハゼの木がある、それが毎年新緑とともに樹勢を広めていく。そして、夏ともなるとやや独特な色合い、何となく暗い感じの、その深い緑色の枝々が周りの灌木をのみこんでいくように思える。
また、すっくと立った赤松が灌木からはるかに高く幹を伸ばして、見事な姿だ。
今年、新年になって気づいたことに、三本だけだと思っていた赤松が、斜面の奥、そこここに新たな立木を見つけた。それとともに、その周囲にハゼノキの若木がそだっているのにも気づいた。
なんでもない雑木林の斜面、何事もなさそうな風景だけど、そこかしこで、木々のせめぎあい、生き残りをかけた戦いがあるのだろうか。
・ボクは、早々に人生、それを社会の片隅に置いてきた。何事につけ競い合うことが苦手で、この目の前の雑木林の中の静かな生き残りの戦い、その敗者となって枯れていく、雑木の様だとも思えてくる。
目の前の、すっくと立った赤松の見事な姿、これを美しいと思うが、僕自身は、この姿の様には、これからも生きてはいけないし、そうなりたいとの願望もない。でも、姿勢だけは“スック”と立っていたいが、背はまるく前かがみになり、そのうちに腰も曲がっていくのかしら、なんて想像も・・・。しかし、心は“孤高でありたい”。
そう、新緑と人生を重ね見て、ふと、こんなことを書いた。
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・・・思い出の満月・・・
5/20/Mon 
昨夜のこと・・・満月を東の里山、その尾根の端に見つけた。
昨日は陰暦の四月十五日。
ウオーキング中は気づかず、まだ昇っていなかったらしい・・・。
コースの東端(中間点・家から3,2辧砲妊拭璽鵑掘∪召惴かって快調な足取りで帰路についた。ここ数日、膝の調子もよく、続けていたウオーキングにもかかわらず、体調が不調だったその故か、やせ細ってしまっていたふくらはぎの筋肉の働きもよく、肉付きも少しだけよくなってきたようだ。
・・・どんどんと西へと進み、さらにわが家へと北へ向かって右折、家も近くなって開けた公園沿いの道、その東側の歩道から横断歩道を渡って西側の歩道へしばらく進んだ時、なんとなく右手に気配・・・そう、ふと街路樹の木の間、向こうの里山の尾根の頂に”ダイダラボッチ“風の満月が、”ニョッキ“と・・・揺蕩い(たゆたい)・まさに悠然と満月が、橙色の満月が、たった今、全身を見せたかのように昇って、そこにあった。8時ころだったか、腕時計を見る間もなく、その橙色の大きな満月,何となく縦長な満月顔・・・そう思いながら見とれ、その続けて尾根のシルエットから上方へと離れ行く見事さに、背後の鉄柵へもたれ木の間を透かして見とれた。
・・・束の間、尾根のシルエットから徐々に離れ昇っていくのを眺めながら地軸の回転、東への回転を少しだけ実感しながら、そのシルエットから少しずつ離れはなれて昇っていく不思議に心を奪われつつ・・・あの飛鳥故京、その額田王とともに、その庵で眺めた陰暦四月十五日の満月を思い出していた(『額田王研究』の「序章」)。
・・・だが、今日・今宵は小雨のため、ウオーキングをサボッタ・・・。
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・・・ホトトギスが鳴き続ける今日の里山・・・
5/27/Mon 
今日は、旧暦4月23日・・・。旧の暦でも夏・・・夏鳥が鳴きました。
午前9時ころ、家の前の里山、その雑木林からホトトギスの囀りが・・・きょきょきょきょきょきょきょ・きょきょきょきょきょきょきょ・きょきょきょきょきょきょきょ・と、三四度聞こえてきた・・・そう、夏だ・・・ホトトギスが鳴く・・・。
午後2時ころにも、ちょっと変わった鳴き声、力強いそれが聞こえた・・・きょ・きょ・きょ・きょ・きょ・・・と、区切りながらなくそれ・・・。
*唐突であるが、ここでホトトギスを詠った万葉集歌二首を記そう。
・古に恋ふる鳥かも弓弦葉(ゆづるは)の 三井(みい)の上より鳴き渡りゆく
・第111歌弓削皇子(ゆげのみこ)が持統天皇の吉野への幸に随行し旅立つ際の額田王への別れの挨拶歌。
・今飛び去っていったのは、古を恋ふる鳥・ほととぎすかも、わたくしはいま飛鳥を発ちます、お別れです、お元気で―
と、自らを爐曚箸箸す瓩剖鼎蕕掘∈は持統天皇が治めるその飛鳥淨御原宮より旅立つ。
弓削皇子自らに起きつつある宮廷での不遇な地位、その不安から同じ様に淡海朝廷葛城皇子(天智)に仕え、この飛鳥では幽閉に近い境遇の額田王へ、謎かけのような趣の愛惜のこもるこの歌を贈る。
・贈られたこの歌に和(こた)え、返し進(おく)る次の第112歌が、あの僕の書、その序の章の冒頭におきたい額田王の歌。
次の歌の第3句「霍公鳥・ほととぎす」は夏の鳥、古代中国では懐古し哀しみ鳴く鳥‐ほととぎす。序の章、僕が額田王の屋へ出かけた旧暦四月八日の夕べから始まる論考・・・です。
古に恋らむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾思えるごと     第112歌・額田王
・ほととぎすは古に思いをはせ哀しみ鳴く鳥ともうしまするそうな、よき貴人武人(弓削・弓絃・良武・・この二首にまつわる“武”からの武人)もまたその様な思いを心深くお持ちなのでしょうか、このわたくしめもやはり、よきむかしが恋しくてなりませぬ―
と、過去に飛鳥で起きたいくつもの策謀とその結果をおもいやりながら、王は心からの別れの歌を返しおくる。その場面・・・。
・・・・・・・・・・・・
天気予報によれば、ここ連日の記録破りの暑さは今日限りで、平年に戻るそうな・・・本当かしら。
数年前から、この季節になるとホトトギスの囀りを聴く。なかなか印象深い鳴き声だ。著書『額田王研究』の序章の前、「はじめに」の末尾に書いた部分を、一部ここに再録した。
それにしてもこの不快な暑さ、湿度が徐々に上がって、不快指数(近年聞かなくなった・・・夏中不快なことを言いつのられても不快指数が一層ひゅかいになるものね・・・)も上がる。
これも致し方ないこと、海に囲まれた日本、雨の降ることは日常の国だ。ホトトギスは、こんな蒸し暑さが好きなのかもしれない。
それにしても、近年の気候変動を如実に表しているかのような東海地方の高温・・・この1週間ほどの異常な高温・・・。これには参る・・・そう、思考力が、衰えを見せる中、この高温で、その症状がさらに進む、そんな気がする。ええ、もともとの能力不足を棚に上げて・・・お天気のせいにしています。
いま宵の7時10分・・・今から着替えして、ウオーキングへ出かけます。気をつけていってきますね・・・。
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・・・今日の里山・・・
5/30/Thu 
一昨日28日は雨降り・・・空気が長閑(のどか)になって、気持ちも落ち着く。
昨日29日は晴れ・・・気温が下がって、早々に洗ってしまっておいた冬のウオーキング用ウインドウブレーカーを引っ張り出した。
心がけているウオーキングも雨の日は休む、さらに時々ズル休みもする。
・・・いくつもの病を宿している?ボクは、宵の口ごとのウオーキングは虚弱な体(他人にはそうは見えないらしいが・・・)、精神と体自体を保ちつづけるのに必要だ。
そういえば、盛んに鳴きかわしていたホトトギスがぱったりと鳴かなくなって数日、なんと鳥とは自由なもの・・・と、改めて思う。そうそう、このホトトギスが鳴いた日、珍しく一羽のツバメの飛翔を見た・・・。かつては飛び交うツバメがいたものだがこれも近年見かけることがまれになった。
人もそうだが、季節の鳥たちも、去っていくもの、新たに鳴き声を聞かせてくれるものと、いつの間にか、去り、そして来る・・・。
・・・新緑が濃くなって街路樹のトウカエデだけがやや明るい緑色を残している。
モミジは少ないが、それでも公園の隅のモミジは今、青モミジが美しい。
・・・その青モミジ、手元の歳時記には載っていないが、近年、ラジオの俳句の時間に時々耳にするようになった・・・その青モミジを実感したのはずいぶん昔のこと、その、なんとも言えない心地よい緑の風景。
あの京都東福寺や永観堂の、春・初夏の風景、その青モミジの風景は雨の紅葉の風景とともに忘れられない。
しかし、こうした風景・景色も、独り者は、ただ思い出の中に残っていて、改めて訪ねようとの心の動きを誘われること残念ながらない・・・そう、何をするにも、独り者にはつまらなく思えてしまう。結局、改めて出かけようなんて気持ちにもならないで、引きこもり。
・・・・・・・・
5月30日、先週の異常な高温から、膚寒いほどの気温降下・・・体調管理が難しい。
・・・今月はこれで・・・また6月に元気で、お目にかかりたいと、思っています。
あなたもお元気にお過ごしを・・・では、今月はこれで。そういえば、梅雨入りはまだでしたかね・・・???
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