建築家日比龍美BLOG

HITBIT 心もよう vol-115 September 2019

HITBIT[心もよう]vol-115 September 2019
9月はじめの1日2日3日に、せっかく書いた記事がどこかへ行ってしまった・・・。
かつては、このようなことが度々あった、そう、設計のためにアップルのマッキントッシュ。Mac Osを使い始めた頃・・・描いた図がいずこともなく所在不明になることが何度もあった。それは、記憶媒体の容量不足やパソコンの速度不良、さらにボクの未熟なパソコン知識などが原因だったのだろうが、その時の落胆は、図面に込めたアイデアの喪失とともに、取り返しがつかない失策だったが、それでも気力を振り絞って、新たに、こまめに、保存を繰り返ししつつ描き切った、という苦い思い出が何度もある。

80年代のこと、WindowsのNECパソコンが日本のパソコン使用者の人気を得て席巻し、また、東芝のダイナブックがラップトップ型として、モバイルパソコンとして、米国市場で主導的な位置を確立したのだった。続けて日本の各電機メーカーがWindowsOsのパソコンを競い合って開発する、あるいはアップルのOSがオープンな時代にはSonyがそのOSのパソコンの一翼を担った時代があったが、ボクはもっぱらMacintoshを使い続けていた。建築設計にパソコンを使うということ、そのころ大学の建築学科ではまだパソコンで設計デザインするという、その技術的デザイン的教育はどこもなされていなかったと思う。その背景には、大学が機材をそろえ、一つの教室で、学生に授業とはいえ、教室として公開することは、大きな費用を要したということがあるのだろう。そんなパソコン普及の前夜ともいう時代が瞬く間に夜明けとなって、会社や個人へその所有と使用が普及、日本製Windows仕様のパソコンのメーカーが乱立して、活況を呈した。
それも淘汰が進んで数十年になるのに、ボクはアップルに固執して使い続けたが、設計の仕事が減少など、さまざまな事情から、新たに2年間の勉強の期間を持てて、その過程でのレポートなどの仕様がWindowsであることから、Windowsパソコンを、記述・文章専用として2006・7年から併用するようになった。
そして、その後、何度も書くようだが、研究書『額田王研究』という一書を約10年がかりで完成した。1000頁余、100万字ほどの、いうなれば、ボクにっとっては大著だが、これを、書きあげることが出来た。そう、個人が、印刷のもととなる原稿をしたため、本としての組み方・体裁など、すべてを、自分自身で思い通りに仕上げることが可能になったのだった。しかし、この研究書、万葉集歌額田王歌の未解読歌、その解読と万葉集歌新説の提示、さらに日本書紀中の一つの短歌の親に当たる長歌の存在の発見と解読をなしたこと、しかし、その内容が一般的ではなく、また難解だったこと、さらに大著であるがゆえに単価が高沸し経済的には流通にのせるには困難だったことは残念だ。

しかし、この社会において、本、著作・・・この本・書を作り上げる、すべての工程を、個人として成し遂げる”手段“を手に入れることが出来るようになったのは確かだった。さらにインターネットという、世界を網羅する自己主張・発信の手段を得て、自己の主張や著述などを広く発信することが、可能になったのだとも思う。
これは画期的なこと、そして、このパーソナルコンピュータはボクにとって”利器”となった・・・。
*しかし、社会一般において、この便利な道具は、そこの自己規制的制御が働かなくなると、利器が武器になりかねない。
・・・ボクはこの利器パソコンを利用して、ささやかだけど、BLOGという形で、この社会に生きるものとして、ささやかな思いや、こうあればと思うことなど、あるいは今日の社会批判的なことを書いてきた・・・そう、社会性に疎いボクが、ささやかに社会と関わってきたといえる。読む方によっては共感や反対意見、あるいは危うさを覚えられる時もあろうと思うが、自制を忘れず、これからも書いていきたいと思っている。
また人によっては気になることであろう、世界の政治に携わる人たちを“敬称や地位を附し、敬語として表現することを、極力避け、呼び捨てている”・・・が、これは、表現として自然なことと思っている。また、このような立場から、二ホンの政治家についても、同じ表現で書き表しているが、魂胆や他意はない・・・いかがだろうか。

*・・・世界でデモクラシーが脅かされる事態が次々と、起きている・・・近代・現代の国家は、民主主義・自由主義・法治主義でなければならないはずなのに・・・。国家の指導者としてあるべき人物や国民から選ばれた“代理者”がなすその政治手法に、往々にして、その政治家としての素質や姿勢に“私は代理者”との自覚の欠如(国民からの負託を得たという意識の欠如)が・・・これは変だぞと、国民レベルに感じさせる政治家も多い。
多いというよりも、ほとんどの政治家、政治主導者が、己の進む道そのものは国民主体の国造りのはずなのに、何を思い違いしているのか、国家の在り方、指導者としての在り方に、疑問を抱かざるを得ない者がほとんどだ。
そんな政界のすきを突くかのように、自薦他薦によって、いわゆる高級?官僚の政界進出が甚だしくなり、その政界へ手引きされたことによって、親分子分の人情的従属ということが一方に現れ、新鮮であるはずの新たなキャリア自体がお追従者に成り下がるという、新たな悪循環が芽生えて、政治の刷新へ行きつかず、途中で頓挫するという、泥沼的政治屋集団が新たに形成されるという現象が近年ことのほか甚だしくなった。
現在の二ホンにおいては、政治家・政治屋のおごりとしか思えない言動が多々見られ、国民の思いが届いていない方向へ進み、国民の批判もが、顧みられないで捨て置かれるという、ことも感じる。また国民自体が、政治を見つめる、見張(ウオッチング・Watching)るという根本的な自由人の位置づけさえも忘れさって、自分の一票を、ひとりの政治屋に張り付け、進呈してしまい、その票を成り行きに任せるという、無責任極まる位置に自らを置き去ってしまっている。
こういう批判的なことは、本来誰にでも与えられた、国家によって、また憲法によって保障された国民の権利であることを、忘れさったのか、知らないのか・・・そう、憲法を“その前文から数年に一度でいいから読む、確認する・・・”という、時間を持つべきだと思う。
現在の日本国憲法は、読みやすく理解しやすいと思うが、いかがであろう。
数年前『???スピリッツ』という、コミック誌が、憲法記念日に際して特集号を出版してくれ、その企画とともに、わかりやすさが、とてもよかったが、せっかくの一冊を誰かに遣ってしまって、今では惜しいことをしたと、5月3日の憲法記念日が近づく度に、数冊買っておくべきだったと後悔している。この企画『???スピリッツ』を出されている社へお願い・・・できれば毎年この憲法に関する“スピリッツ企画”・・・をやってほしい・・・と思っています。
ええ、ボクは、この現日本国憲法の改憲には反対です。国家、国民は守られるべきだと思う、それがただ、外国からの侵略から国民を守るという、とても分かりやすく、分かったと錯覚しやすい・・・という一点へ集中して、軍備拡張にばかりに走る政権に大きな危惧を抱くのです。
そう、今日のこの自然災害の襲い来る列島の二ホンを見るとき、これからもぼくたちがこの地・国土に、本当に住み続けているのだろうか、この国土、山川草木、故郷の豊かな緑・美しい河川。美しい山河・・・は、この令和の時代も存在し続けるようにはとても思えない、そんな不安がボクに襲い掛かる。そう、守るべき山河が自然災害によって消滅する危惧、これこそがボクたち国民が真っ先に考え、その手立てを、早急に考え、理解しあう・・・そのこと。その基盤に立って、軍備も考えること、平和を考えること、国家を考えることが必要であろう。(このことは、これまでも書いてきた)

軍備をいくら補充・充実したところで、それは底無し、際限のない、勝ち目のない消耗戦、実りあるものは何もない。守るべき・・・国土・山河・健康な国民の存在・・・これこそが前提にされ、国家の存続を論議すべきだ。
そう、崩れてしまう河川堤防を放置してきたがために、嘆き悲しみ、口惜しさにうつむいてしまい唇をかみしめ沈黙する国民を作り出してしまった、それ、国防力増強にばかりうつつを抜かす政治であってはならない。
「平和国家」とは何か・・・それは、健康な国民が日々穏やかにつつましく生きてある国のことを言うのであろう・・・。守るべき国民と山河を自然災害に失って、何を守るというのだろうか・・・国土・山河・・・それは、日本人がこの国の起源に神から与えられた、美しい海岸線に縁どられた緑なす山・清き流れの河川、豊な”米“を産する国のことだ。それは・・・瑞穂の国・・・これこそが、忘れてはならない、二ホン国民の精神と肉体の根底にあらねばならないと考える。そう、さらに言えば、国土の一部にでも”原水爆・核兵器による焦土“を出現させるような、国際関係・国家施策では”国を守る・守った”という事にはならない。
これを目指し、世界の国々と友好を重ねること・・・その結果を、どのように過程を踏み、この“二ホン”が歩んでいくのか、歩み続けるのか、それを考えること、それが政治の第一最大の目標だと考えたい。
・・・先に、・・・世界でデモクラシーが脅かされる事態が次々と、起きている・・・近代・現代の国家は、自由主義・民主主義・法治主義でなければならない・・・と、述べた。
世界にはいまだこの人間社会の三原則、言い替えれば”自由・平等・博愛“という、意識社会・実社会に至っていないで、経済力と軍事力さらにイデオロギーを背景にして世界の国々へ繰り出していく、強国がいくつもある。そして反面、その意識を得ることさえ出来ていない、人間としての未熟や無教養が貧困とともに存在している国々が大変多く存在する。
もしかすると、近代国家になった二ホンと、我々は思ってはいるが、わが“二ホン”もこの・・・「未だの途上国」・・・なのかもしれない。ことに、政治力においては・・・。
戦後の日本の政治、ことに昨今の政治は“お祭り・観光”ばかりに国民の耳目を向けさせ、世情は・・・浮付き・軽薄・拝金・利益・学歴・受験の結果によって評価される人・のし上がり蹴落とせ・利己・無学問で自ら問うて学ぶ事の欠如・本来の個としての教養の欠如・・・などなどと・・・人間の本質に目を向け、それを培う努力を促してこなかった二ホンの教育と教育者。

・・・・まあ、・・・こうして、ボクのような老いたものが、社会批判的なことを書くより、若い中学生や高校生大学生、社会人となったばかりの若い人たちが、自分が思うこと考えることを、インターネット上へ吐露する機会が多く成ればと思うばかりだ・・・。
近年はスマートホンという、パソコンよりも手軽で高性能、さらにそのネットワークの多彩性などは、僕のようなものが尻込みしてしまう、使用性、利便性がさまざまに付随し、より一層、ソーシャルネットワーク化が身近となっているにも関わらず、その機能役割が、娯楽性へと傾いて、社会性とでもいうのか、市民性という方向とはかけ離れた利用にしか目が向けられていないようにも思われる。
すなわち、利器としてのパソコンやスマートホンが、ただ身近で気楽な社会性にとどまり、この社会の一面にしか生かされていないようにも思える。それは彼のラジオ・TVが、たどった、堕落の道と同じ方向へと、転がり落ちていっているようにも思える。
・・・そう、二ホンの若者が、身近な生活的な事柄から、さらに社会性・世界での事件性や政治性などを帯びた情報の受信や発進へと、進むことが期待されるが、就職への懸念からか、もう一歩二歩踏み出せないでいるのではないかとの、感想を持つ。
もちろん職を得て社会人となったものも、ただ社会の力関係をおもんばかって、自らの保身へと走る方向がほとんどだ。
こうした、世情への無関心とも思える在り方、人間として社会にあり続ける意義のとらえ方、これは二ホンの日本人の持って生まれた、人としての生まれ方にあるのだろうと思う。すなわち、百姓、農民としての本来自由人であるはずの生き方が、古代から虐げられ、統制下におかれたことが、ずうっと後を引き、今日になっても、そこから、人間としての生き方をつかみ切れていない、人間としての生き方を見出していないということへとつながってきたように思える。
それが、例えば、今年のように甚大な各種の災害に見舞われても、声を荒げたり、哀しみ嘆くことをあらわにしたりすることなく、感情を押し殺して、その被害に恨み言を言うというような方向へ進まず“仕方がない”とうなだれる、”どうやってこれからを生きていってよいのか・・・”などと、静かに嘆くにとどめる。それをよいことに、政治は、聞いて聞かぬふり、見て見ぬふりを装い、うわべだけのクヤミにとどめ、それ以上は踏み込まない。
そこには、二千年ほど古代社会の成立というのか、形を成し始めた”社会“というものが、一握の強権力に握られ牛耳られてきたことに発して、さらに土地に縛り付けられたことによっておのずと飼いならされ身についてしまい、心根となってしまったとも思われる。それは、牛馬同然の位置に置かれ続け”人−にんげん“としての心根が培われずに来てしまったことにある。
それは、現代においても、同様だ。縛り付けられる位置が、土地から、会社・勤め先…へと移ったに過ぎないことからも明らかだ。
国民の大半が、飼いならされることに慣れきってしまった、さらにそれを打ち破るような国外からの生存の脅威というものがなかったこと、あったとしてもそれが、長い迫害としての期間・年月・世紀ではなかったことが、二ホン国民として連帯することなく、“家族”という殻に閉じこもり、外へ目を向けることなく、何者かに抵抗することもなく、現代まで来てしまったこと、さらに“島国二ホン”であることに起因するのだろうと思われる。そう、日本人は”怨念“を持ち続けることを・・忘れてしまった・・そんな民族かもしれない。すなわち、歌うことを忘れたカナリヤ・・・さえずりを忘れたスズメと、なったのかも。
これが、現代には“ともだち”という極めてソフトであいまいでありながら、それが、携帯電話やスマホという利器によって拡大したかのような社会性を装いながらも、やはり“匿名”という殻に守られて、拡大しない“ほのかな温かみへの集団の依存”を若い人たちを主として存在させ続け、それが家族ととってかわったに過ぎない、脆いつながりとして、時には裏切られ、いじめられるというリスクを裏に秘めながら、今に存在し、拡大して居続けている。
そして、人としての存在の孤立、そして結果はいじめや自殺、それをいい加減な教育者ぶりを売りにする妙なヤツどもの”言“として、いかに”いかにももっともと“わかったようなふりによって、また、そ奴の社会的存在をも許す社会”、その周辺の物わかりの良さをも重ねてその存在を許すこととなっている、そのことに気づかない、極め付きの軽薄社会・・・存在の孤立と存在の希薄化・・・そんな社会そのものに蔓延する意識しない自己喪失が、今日の日本社会なのだろう。
そう、それは、成人式にさらに幼児でもないのにハロウィンの夜に狂う、あるいはクリスマスイブに、年替わりのカウントダウンに、渋谷のスクランブル交差点に参集するバカどもが、警官隊により規制されつつ”楽しむ”、“規制されることにある安心感”が自己そのもを忘れさせて楽しむという、愚かさ、その愚かな姿・・・そう、どこを探しても物事の本質・意義が見いだせないそのことのように思える。いつの間にか失っている、個としての人間性を、この者らは、自ら捨て去っているというのか、個という存在があることにすら気付いていない、これからも気づくことがない彼ら。

これは、為政者にとっては、きわめて好都合なこと、歓迎される存在、束ね操作すべき存在が、いわば家族にとって代わり、きわめて大きな単位として把握しやすくなったということ、さらにそれはきずながない分崩壊もしやすい集団なのだと、思う。
こうしてみると、今、二ホンの社会を変革することは、社会の側からというのか社会の中からは不可能なように思える。
しかし、世界に目を向ければ、ひとり二人の少女による人権問題や地球温暖化の問題に疑問を呈して立ち上りがあったことは、記憶に新しい新鮮な“社会の在り方への疑問“の提示の仕方であったと、思う。
そう、大人たちがなすすべもなく手をこまぬき、ことばも行動も発しなかったのを、見事に正面から問いただして見せたのだった、あのふたりの少女たち・・・。
しかし、今の二ホンの少年少女そして青年にはこんな”主張を成す姿“は期待できない。
これが為せないのは、そこにあるべきおとなたちが存在しないからだ。そう、この二人の少女を、幾分でも支えた大人たちの存在があったのだろうと僕は思っている。またそんな大人たちが存在することへの期待を持つ。それはたぶん、男たちではなく、おとなのご婦人たちなのだろう。
***
九月・・・パソコン・・・このインターネトのウェッヴページが、FlashPlayerに依存するところを持っていたがゆえに、その動画画面にブラインドが掛かり、きわめて見苦しいページの羅列になって、ボクを意気消沈させ、書く楽しみを奪われてしまった。
そしてここ十一月にきて(事実は、10月2日の投稿にしました)、体調も幾分よくなって“ブログを書くか”との気力も少しわいてきた。
建築の設計者として、デザインをする身にとっては、このボクのページも、表現者として幾分ともおろそかにできないのであるけれども、まあ、ページのデザイン屋さんが、今現在では、FlashPlayerを必要とするウェッヴページを維持できなくなってきているというのだから、非常に残念ながら、動画画面を諦めざるを得ない。
そんな事がここ数か月、ボクが自分のウェッヴページの維持に情熱をかけられなくなり、ブログも滞らせてしまったというような訳です。加えて残念ながら体調、ことに喘息と、身辺のこんな事情から、休刊となって、これを読み続けていただいてきた貴女・貴方には申し訳ないこととお詫び申し上げます。過去にも一年間休刊としたこともありましたが、今回も何とか”復活”をと自分を鼓舞しています。
再起、さらに続けられるかどうか、前途は不明ですが、今一度と、思って居るボクです。
ということで、この9月号、第115号は遅まきながら、掲載の月と日をさかのぼって、9月末として掲載いたします。10月号も、こんな具合になりそうですが、お許しいただいて、掲載を為させてください。
季節の変わり目、お体お心へ、インフルエンザが入り込まないようご注意ください。お元気で・・・再見!
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